中国語中国文化学科の歴史


中文学科第一期生と先生方(1961年)

日本大学は1889(明治22)年10月、当時の司法大臣、山田顕義によって創設されたという日本法律学校に由来します。この年は、中国では徳宗の光緒15年、西太后が実権を握っているころでした。
中国語中国文化学科の歴史は1924(大正13)年に、法文学部が設置され、その文学科に漢文学専攻が設けられたのに始まります。漢文学研究室が置かれたのは1927(昭和2)年になってからのことでした。ちなみに1935(昭和10)年当時は、日曜日に演習の輪読が行われるなど、盛んな研究活動がなされていました。その頃授業で読まれていたものは、詩経(シキョウ)、楚辞(ソジ)、周礼(シュライ)、礼記(ライキ)、資治通鑑(シチツガン)、古文辞類纂(コブンジルイサン)、史通(シツウ)、元曲(ゲンキョク)などです。
1942(昭和17)年、戦局の悪化にともない、専門部文科、各学科は学生募集停止となり、1945(昭和20)年4月には授業一箇年停止の非常措置が取られました。同8月の敗戦に伴い、戦前の精神教育に加担したという批判のもとで漢文学専攻は学生募集停止となり、1958(昭和33)年、文理学部の創設とともに、新たに中国文学科として甦りました。




中文学科初期の語学劇(1961年)

新しい学科の教育方針として中国の思想、文学、語学の三つの柱が立てられました。復活当初は二年編入生が8名、一年生が7名、合わせてわずか12名という少人数の学科でした。その後もしばらくは、全学年合わせて、学生数が20名から50名という状態が1969(昭和44)年まで続きましたが、その後の大学への進学率の増大、あるいは中国との国交回復等の理由により、今日では一学年の定員が80名という数になり、卒業生の数も既に3000名を超えるまでになっています。
大学院(中国学専攻)の修士課程が設置されたのは1973(昭和48)年で、翌1974(昭和49)年には中国文学科創設五十周年を迎え、研究室挙げての記念事業が行われました。更に1975(昭和50)年には大学院の博士課程が設置されています。
中国近年における政治的・社会的変革により、中国研究は多様化され、思想・文学をも包括して、より広く文化という視点に立って、中国語を基礎に綜合的に中国を理解できる人材が求められています。そこで、新しい時代の要請に応えるため、本学科は科目を増設して選択の幅を拡げ、21世紀の初頭2001年に、学科名を「中国語中国文化学科」と改称して、さらなる飛躍を期することとなりました。

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